昭和48年01月19日 朝の御理解



 御理解  第44節
 「狐狸でさえ、神にまつられることを喜ぶというではないか。人は万物の霊長なれば、死したる後、神にまつられ、神になることを楽しみに信心せよ。」

 人は万物の霊長なれば、ここは人間は万物の霊長であるから、神になれるという事ではない。神に祭られ神になる事を楽しみに、信心させて頂かにゃならん。金光様の御信心を頂いておれば、誰でも神様に祭られるとそう言う事じゃない。生前私共がこの世にあるうちにです。神になる事を楽しみに信心しておるのでなからなければいかん。最近大改まりという言葉で私が申しております。信心とは自分の例えば我情我欲、自分の思いが成就する事、願いが叶う事の為に信心するのじゃない。
 言うならば物やら金やらの方へ、向きが向いておると言うのじゃなくて、信心とはわが心が神に向うておらなければならん。わが心が神に向かう。信心とはわが心が神に向うのを信心と言うのじゃと言う向きが変えられる。これを第一の改まりだと思う。神様に向うて行く神に向うて行く。それを楽しみに信心をする。ですからこ言う事では神にはなれないをと。こういう汚い物が有っては、神にはなれないぞと。ここを改まらなければと言う。小さい色んな意味での改まりと言うものは。
 改まらなければおられなくなって来る。
 自分の信心姿勢というのが、そこん所がです。私は神になることを楽しみに信心せよと言う事は、そう言う事だと思う。神になる言うならば神になる稽古、神になる事を楽しみに。そこで自分よがりに、俺はもう神様になっていきよる、と言うだけではいかん訳です。そこには神になっておるなという印が、証が立てられなければいけんのです。成程これが神に向かっておる証だなと言う、その印をね私共が見たり感じる処に、もう愈々神に向こうて行くという事が楽しゅうなるのです。
 その第一の証は、自分の心の中が段々段々信心をしておれば、一年一年有難くなると仰るが、有難うなっておると言う事。自分の心が一年一年有難うなって行く。これが第一のこれは自分自身だけしか分からない証である。これはもう自他共に、自分も感じられ、人もそれを分かって貰えると言うのが、私はおかげだと思う。小さな家に住んであったばってん、大きな家に住まえれる様にならっしゃった。汚い家に住んじゃったけれども、あんな立派なお家に、住まわれる様にならっしゃった。
 まぁおかげの全てがそうである。言うなら五つの願いが、段々成就最近言われる五つの願いですね。その願いがね成就して行っておると言う、これは神に向かうと言う事になれば、そういうおかげが受けられるのです。だからそれがもう論より証拠と言う事になる。第一私を見て下さい。と大改まりに改まって行く姿を見て貰う。自分の心の中は愈々信心をしておれば、一年一年有難うなって来ると仰せられる。
 阿倍野の先生などは、そこんところを信心しておれば、一年一年有難い事が多くなって来ると、こう言うておる。これは阿倍野の先生がおっしゃっておられる。有難い事が、多くなって来るという事は、家の例で申しましたが、小さい家から、段々立派な大きな家になって行くという事なんです。少しばかりの財産から、たくさんな財産に、段々、増えて行くと言う事なんです。
 信心をしておれば有難い事が段々大きくなって来る。そういう証を立てて行かなければいけない。まずぞの根本になるのは、私が有難うなると言う事。有難くなって行っているかどうか。もう信心して何年になるが、どの位真に有難いと思う心が育って行きよるか。是が所謂神になる事を楽しみに信心しておる人の姿であります。どうでしょうか皆さん。証を自分の心の中に感じるだろうか。人が見ても成る程と合点しなさる程しのおかげを受けておるだろうか。ここの所が相まって行かないといけない。
 只立派なお家に住めるようになったとか、沢山な財産が出来たと言うのなら、例えば運の向いてきた人なんかは、もうトントン拍子に信心はなかっても、悪い事しながらでも財産を作って行ったり、立派なお家に住んでいったりしてる人があるでしょう。ですから、それだけでは、いけないのです。自分の心が有難い有難うなって来る。その有難いと言うのが一年一年、有難い事が増えて来ると言う形の証というものが、立てられて行く。そこに信心は愈々、楽しいものになって来る。
 そこで私共が具体的にです。どういう信心をさせて貰うたら、どういう信心修行に取り組ませて頂いたら良いかと。最近五つの願いと言うその五つの願いを、一生懸命願うておるから良いという事ではない。昨日の御理解で言うと、言うならシャンとした筋金が入っておる願い、公儀名分が立つ所の願い。だからと言うてです。それだけではいけないのです。それを受ける力がなからなければ。はぁ中々筋の立ったお願いをしよる。それも一生懸命で願いよる。しかも家族中で願いよる。
 だからそんなら神様が、おかげをやらじゃこてと言うて下さっても、そのおかげを頂いてよろよろする様な事じゃ出来んとです。今日私はある人の事をお願いさせて貰いよったら、大きなお家に住んどるとが、家がびっちゃげておる。その家の下敷きのごつなっとるけん、さぁお参りしようと思うたっちゃ、お参りが出来ない。言うなら家の重み言うか、おかげを頂いておかげを頂いた。だから大きな家になった。だからもう愈々、有難いとならば愈々、有難い信心が出来なければならんのだけれども。
 その家に重しが掛けられてるから、それを家を撥ね退けて、お参りをすると言う元気も出らん訳です。だからおかげだけ頂くのはこれは返って、害に成る様な感じがするですね。だから愈々の時には、頂かにゃなりません。又おかげも下さいますけれども、そういうおかげだけでは害になる。益にならない。いわゆるわが心が神に向うという事には関係ない。むしろ神様に借金して行くようなもんじゃ。ですから私共の信心の喜びと言うものがです。その喜びが段々育って行く。
 所謂神になる事を楽しみの信心と言うのは、本当にわが心が神に向かっておる印がね、感じられるだから一番根本になるところは、結局おかげの世界から、神様へ向かう世界へと、回れ右をした所からが、いうならば原点になる訳です。私共の信心姿勢というものが、信心とはわが心が神に向かうのが信心だと、分からせて貰い。そこから始められる。そこにはねおかげを受けたとか受けなかったで、神様を信じたり信じなかったりするような事は決してない。そのおかげが問題じゃないのだから。
 こげんして神様へ向かわせて下さっておると言う、お礼の心こそ湧くけれどもです。こんなにして神様が神様へなる道を辿らせておって下さるんだと思うから、お礼こそ出れ不平不足など、いや神様も良い加減なものだと言った様な心は、さらさら起こって来ない事になる。そこでわが心が神へ向こうて行く。そこに有難いと言う心にです。いうならば印を見せて下さる。証を立てさせて頂き乍ら信心を進めて行く。その進めて行く具体的な頂きかたと言うものを五つの願いをさせて貰う。
 どうでもと願う願ったら下さる。下さるそのおかげをね受け止める心と言う事。今日はそこんところを聞いて頂くのでなからなきゃならん。今日は。それはね私共が愈々大きな信心をさせて貰わにゃいけん。大きな信心には、行き詰まりはないと仰る。行き詰まりのない信心。しかもね調和の取れた信心でなからにゃいけん。好き嫌いがあっては大きくはなれません。私は赤が好きだから赤だけと言うたら、もう赤だけの世界ですから、それは小さい。青もあってよし黄もあってよし、あらゆる色をです。
 自分の心の中一つに頂けれる信心をしなければならん。大きな信心とは自分自身が大きな心になる事なんだ。願いよる大きなおかげを願わせて貰う。そんならこれはもう理の当然ですよね。大きなおかげを願うならば、自分自身が大きな心にならずして頂ける筈は無いでしょう。ちょいとした事がもう腹の立ってこたえん。あの人は好いとるばってん、この人は好かん。それは好いたつは有ってもよかばってんから、好かんとがあっちゃならんです。絶対ならん、大きくなる為ならば。
 私好みじゃつまらん。私は思わせて貰う。私はここで皆さんがです。皆さんを私好みに育てようとは思わない。何処までも一つ神様好みの皆さんに育って頂きたい。又育てさせて下さる事を願っておる。初めの間は私もやっぱり、自分がおかげを頂いておりますから、私がごとすりゃおかげになる。私が通りしなさいと言ったようなね、私好みも強要した。だから、それをハイと言うて、聞いてついて来る人達は、確かにおかげを頂くですけれども、これは何処までも私好みである。
 だから信者の中には、赤もあってよし、青もあってよし、色んなのがあって良い。そして、どうぞその様々な人達がです。神様好み神様のお心に叶う信心信者にお取り立て下さいと私は願う。これは俺好みじゃなかけん、こげんとはもう好かんと言う様な事は言わん。私は今日はね、になる事を楽しみに信心する。わが心が神に向こうて行く。神に祭られる。これなら、神として、神様が認めて下さる。それを楽しみにその為には、自分よがりで、自分だけが、俺はもう神様になりよると思うただけじゃいけん。
 まず自分の心の中に、有難いと言うものをです称えさせて貰う。それが段々大きくなって行く。間違いのない確固たるものになって行く。言うなら降っても有難いなら、照っても有難いと言うような心が育って行く。そんならそれが本当に、確かなものかと言う事をです。そんならおかげの世界に結んで行ったら良いのである。おかげの証と言うものがです。それに伴のうて来る所のおかげ。だからこそ愈々有難くなればなる程に、おかげの印と言うものは、大きく見えて来るから楽しゅうなる。
 そういう楽しみを持ちながらです、私共は一生掛かりで、神へ向かうて行く信心をして行くだけなんです。その内容としてそれを具体的にです、私が今日大きな心にならなきゃいけない。好き嫌いを言うちゃいけない。体質改善等という様な言葉が、この頃教団でも言われております。教会の体質改善。あげな信者はええこげな信者はいけんと言うような事で、体質改善が出来る筈がなか。
 食べ物でもあれは好かん是は好かんと言いよったら、所謂偏食になるから健康の事も偏って来る様にです。好かんでも矢張り頂かせて貰える修行が必要である。もう自分好みの者ばっかりを集めようという様な心を、もう本当にですね、改まらにゃいけません。むしろ自分好みではない人が、おかげを持って来ます必ず。もうそこん所の事実が分かったらですね、もう本当に人を大事にしろと言われても。
 誰でも大事にしなければおられないです。それに自分好みで自分よがりの事ばっかりするから、それだけの範囲しか頂かん。それでいてどうぞどうぞ、大きなおかげをと言うて、如何に逆たんぼうって、五つの願いをした所でです。下さっても受けものがない。私共の心の世界からです。あれは好きこれは嫌いと言う様な物を無くして行く。むしろ自分好みではない者を研究する。自分好みではない者を、有難しとして受ける稽古をする。だから、心は、いやが上にも、豊かに大きくなって行くのです。
 ここん所を二代金光様、四神様は大海の様な信心をしろと仰った。それに竹の筒に水が溜まった様な信心だから、ボウフリ位のものしか湧かんと。ボウフリ位なおかげしか頂かれん。大海の様な信心をすりゃ鯨が住もうがとおっしゃる。鯨の住む様なおかげばっかり願うた所でです、自分が竹の筒に水が堪った様な、小さい信心で頂ける筈がないじゃないか。そらメダカのごたる細かつしか入っちゃこん。だからそういう信心を、内容として参りますとです。愈々信心が楽しゅうなって来るです。
 心の上にもそれこそ阿倍野の先生じゃないけれども、一年一年有難い事が、多くなって来るです段々。教祖様はそこん所を信心をしておれば、一年一年有難うなって来ると仰せられる。その有難い物が確かな物か、どうかという事をです。阿倍野の先生は実証しておられる訳です。自分がり難いと言うその心にです。有難い事が多くなって来ると言う実証を、みんなに示し乍らお取次をなさっておられるのが最近知った。
 阿倍野の先生の生き方だとこう思うです。まずですね私好みを止めましょう。そして例えば三原色とこう申しますから、赤と青と、黄ですか。せめてこれだけは自分の心の中に、頂けれるおかげを頂きますと、この三原色からあらゆる色は出して行けるんです。自分の好みとは全然反対の色、そういう人をです。本当に人だけじゃありませんよ。事柄の場合でもそうです。それを本気で大事にすると言った様な事が。
 その内容にならなければならない。神に祭られこれはもう絶対神に祭られる。それを現世の内に於いてです。神になる事を楽しみに信心するという事。その神になる事を楽しみに信心すると言う事を、今日は具体的に聞いて頂いた訳です。本当に信心が楽しゅうなる。おかげを楽しませて頂き乍らです。いよいよわが心が神に向かうて行く信心を頂きたいと思うですね。
   どうぞ。